家内と娘は、毎年恒例の伊那の花火大会を見に…というより、家内の知り合いの旅館に手伝いに行くというのが正しいのですが。
そんなこんなで、私も行こうかゆくまいか迷ったのですが、あちらに行っても疲れがたまって寝てばっかりでいるのもナンなので、私はゆくのをやめました。
そこで、かねてから狙っていた佐倉市にある「国立歴史民族博物館」での期間展示である『百鬼夜行の世界』の絵巻物を見てきた。
ここ「民博」だけではなく、立川市にある「国文学研究資料館」との共同展示なもので、本当ならば今日はそちらに行きたかったのだが、家族も戻るし、他にいろいろとやることもあるので、今日の遠出はやめにしたのだ。
佐倉には、ウチの菩提寺であるショウリンジがあり、ご先祖を参らずして民博にゆくのもナンだしで、先に墓参りをしたのだった。
親戚がいるわけでもないのだが、京成佐倉近辺は何となく勝手知ったる土地であり、懐かしい感じで歩くことができる。
「民博」も何度も訪れているので、行くたびに常設展示の確認作業をしているようなものである。
残念なのは、開館まもなくのころにあった海洋の部屋の船の先端の迫力ある展示がなくなって、今の全体模型に変わってしまったこと。
そして、今回のびっくりは、「民博」で唯一近世のおどろおどろしい世界を描いていた部屋が、明るくなって「寺子屋」ルームになっていたこと。
子どもにも一般受けもしているのだろうが、私はに残念でした。
百鬼夜行の絵巻物展示は、なかなか興味深いものであった。
やはり鳥獣戯画の根底もあり、つくも神信仰もあり、それが時代を隔てて繋がっているのも面白い。
私は河鍋暁斎の描くものが好きなのだが、少なくとも暁斎までは続いていたのだと思う。
今も違った表現で続いているはずだと思いたいのだが、私には何がそれにあたるのかはわからない。
百鬼が練り歩く様は、何を目的に何を訴えたいのか、そもそも何で行進しなくちゃいけないのか。
でも、夜になると窮屈な環境を飛び出して、群れて外をうろつきたくなる?
昼間は普段我慢しているのだが、開放感に浸ると楽しい。
ナンだか暴走族のような感じであり、これが正常な感覚かもしれない。
窮屈感からの解放。
してみると、現代の引きこもりは何なのだろう。
外界との接触を断ち切るということは、実際には解放には至らないように思えるのだが。
こうしてみると、絵巻物の妖怪たちは、実に活き活きとしている。
この感じを、心に取り戻すのがよい。
それを教えてくれるのが、この絵巻物。
だから、脈々と受け継がれてきたのではないか。
暁斎は、その感覚がわかっていたのだと思う。
人間をよく知っていたのに違いないが、もっと何かがあると感じていたはずだ。
暁斎の鍾馗さまと鬼の追いかけっこは最高です。
その後の引き上げにも、しみじみと人情?があって、人の心の安らぎを感じます。
もっとも、暁斎の絵があったわけでは」ないですが、昔見た絵を思い出してしまいました。
今回の「民博」行きは、インターネットでは売り切れとなった冊子の『百鬼夜行の世界』をわざわざ買いにいったようなものだが、今年の夏のよい思い出となったことは間違いはない。
夏はやっぱり妖怪だ。
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